2019-03-12 第198回国会 参議院 予算委員会公聴会 第1号
その経済力を土台にして、戦後、日本は、昔、福田ドクトリンと、マニラでの福田赳夫首相のスピーチにあるように、日本は経済大国になっても軍事大国にならないという主体的意思を持った日本と違って、中国は、総合国力は両輪があるんだ、経済力と軍事力だというので、経済発展の上に大軍拡を冷戦後のせたんですね。冷戦後、今日まで五十何倍、彼らの発表する国防費だけで五十何倍というすさまじい大軍拡をやっているんです。
その経済力を土台にして、戦後、日本は、昔、福田ドクトリンと、マニラでの福田赳夫首相のスピーチにあるように、日本は経済大国になっても軍事大国にならないという主体的意思を持った日本と違って、中国は、総合国力は両輪があるんだ、経済力と軍事力だというので、経済発展の上に大軍拡を冷戦後のせたんですね。冷戦後、今日まで五十何倍、彼らの発表する国防費だけで五十何倍というすさまじい大軍拡をやっているんです。
そんな中で、たまたま昨日の毎日新聞でございますけれども、河野洋平元衆議院議長が福田ドクトリンのことをおっしゃっておられます。たまたま、昨年の十二月でございますが、私、福田康夫元総理、中国の会議に参加された際に、日中四十五周年あるいは四十年の関係で周恩来元首相のお嬢さんもいらっしゃいましたけれども、福田康夫元総理が福田赳夫総理の福田ドクトリンについておっしゃいました。
かつて、我が国とASEAN各国との間には不幸な歴史もございましたけれども、ASEAN結成十年目の七七年、当時の福田赳夫首相がフィリピンのマニラにおいて福田ドクトリンと言われる東南アジア外交の原則となる演説を行いまして、以降、我が国はASEAN各国と友好な関係を築いてきております。
一九八〇年あるいはそれ以前ですと、ASEANといっても五か国で、ブルネイが参加するまでは五か国で、割と小さな地域の共同体、親米、アメリカに近い、それから反ベトナム、反ソ連という色彩の強い地域の共同体だったという感じで、必ずしも余り大きなプレゼンスは感じられませんでしたけれども、その後三十年以上、四十年近くがたつ中で、福田ドクトリン以後四十一年たつ中で、非常に大きなプレゼンス、つまり、インドとチャイナ
○参考人(熊岡路矢君) 大きな部分では、この何度も言う福田ドクトリンには明示的には書いていないですけれども、自由、民主主義、基本的人権等の普遍的価値の定着及び拡大、これが外交戦略でもあり、それから援助の方針でもあるという点では余り変わっていないと思います。
次に、熊岡参考人にお伺いしたいんですが、資料で福田ドクトリンと二〇一三年の対ASEAN外交五原則を提示いただきまして、やはりこの間の違いといいますか、これによって若干、ODAも含めて日本の外交姿勢というものがASEAN諸国において違っているのかどうか、そこを感じるところありますでしょうか。
それを象徴するのが福田ドクトリン。ここでは、特に日本が大国化する中で疑念や反感がございました。それを払拭するために平和主義を掲げ、相互信頼を求め、まさに対等な協力というのを大きく掲げて途上国との対話を開始したというふうに考えます。更に重要なことは、そのときに日本の援助は二つの柱を立てる、相手国の工業化を支援する、産業の発展を支援するということと、貧困の削減を真摯に追求していくことでございました。
ASEANとの関係をよくしていく福田ドクトリンに基づいて、当時は大変にASEANとの関係も厳しい状況の中にあった、その中で相互の交流、理解を深めていく、そういう中でつくられたセンターであったと思います。 ところが、短時間でありましたので、それがすべてではないと私は思うんですけれども、一体あそこの場所は何をする場所なのかなと単純に思いました。
お父さんの福田ドクトリン、日本はいわゆる非軍事大国という道を進むということに言及しておりまして、福田さん自身も、平和に徹し、軍事大国にならない政策を堅持していくというような表現をされ、アジア重視、善隣友好という福田外交の真髄を表現されておるのではないか、こういうふうに見ております。 二年前のあの演説、福田外交の一番の本質だ、こういうふうに受けとめてよろしいんでしょうか。
そういう意味で、先ほど鉢呂委員の指摘の中にもありました福田ドクトリン、一九七七年のことであったと思います。軍事大国とならない、心と心の触れ合いをしていく、対等な立場でやっていく。改めて、福田ドクトリンも視野に入れながら、大きく総理としてどのような外交を展開していかれようと考えていらっしゃるのか、お聞かせをいただきたいと思います。
ただ、私は、どこまでの軍事力、兵力が適当かという議論もきっちりとしつつ、やはり福田ドクトリンの中にあった、軍事大国とならず世界の平和と繁栄に貢献する、そのためにも、心と心の触れ合い、信頼関係をつくる、対等な立場で東南アジアの諸国の平和と繁栄に寄与していく、つまり軍事大国にならないという前提の中でそういう環境をつくっていく、そういう努力がドクトリンの信条ではないかなと思うんです。
明快に福田外交が目指すものは何か、あなたの父上がアジア外交で提唱した福田ドクトリンに相当するような外交の基本指針があるならば、是非お示し願います。 次に、ブッシュ米大統領との会談で見逃すことのできないのは、米国の北朝鮮に対するテロ支援国家指定の解除をめぐる動向であります。 日本としては、拉致問題の解決を抜きにして指定解除を認めることは断じて納得できるものではありません。
福田ドクトリンが打ち出された三十年前に比べ、アジアをめぐる状況は大きく変化しております。中国は目覚ましく発展しており、インドについても更なる経済発展が期待されるなど、アジアは経済的な成長センターとして力強く発展しております。一方で、アジアには依然、域内格差、脆弱性も見られ、環境、国境を越える問題など、新たな課題にも直面しております。
かつて福田赳夫総理は、アジアとの関係の中において福田ドクトリンというものを打ち出して、友好的な関係を長期にわたって維持していくためには日本外交はこの方針でいくと三原則を打ち出したのでありますが、日本の環境行政にあって、鴨下ドクトリンというようなものをこの三原則をもとに打ち出されることを考えてみられてはいかがだろうか、こんな御提案を申し上げたいと思うのでございますが、大臣、いかがでございましょうか。
福田さんは、かねてアジア重視、お父さんの時代の話に対して新福田ドクトリン、形はなしていないんですが、漠たる感じとしては、アジアを重視する、こういうふうな意味合いが伝わってくるんですが、これはどの方も、アジアを重視しないなんという人は、安倍さんだってだれだっていないはずで、そういう観点からしますと、まずここで何を聞きたいかというと、高村外務大臣のアジア観を聞きたいわけです。
福田ドクトリンというやつでございますが、軍事大国にならない、心と心の触れ合う相互信頼関係を構築すると、対等のパートナーシップ、当時はこの対等という言葉はとても重かったんではないかと私は思いますが、この三項目を我が国の東南アジア政策の柱に据えて、その後、これが対ASEAN外交の基本となっているわけでございます。
私、ことしの一月に代表質問をさせていただいたときに、小泉総理に対して、福田ドクトリン以来のアジアのドクトリン、小泉ドクトリンみたいなものを打ち立てたらどうですか、こう質問させていただきましたが、答えは全くありませんでした。
具体的には、日本は既に一九七七年に、福田ドクトリンという形でアジア諸国に対しまして、日本は決して軍事大国にならないということを鮮明にしているわけであります。
まあ、ややというよりはかなり八方美人な、中身のない言葉のように聞こえますけれども、この福田ドクトリンの実体は日米外交とアジア外交を両方とも推進するということであってですね、実際、福田政権はこれをかなり達成していくわけであります。これが大きな課題の一つ。 もう一つの課題は、核を保有しない国家が安全保障においてどのような選択肢を持つかということであります。
まず、伊奈参考人から福田ドクトリンの話がありましたが、私個人的には、日本のもろもろの条件、状況を考えると、全方位平和外交はもうこれは当たり前と。
総理大臣として、例えば、あなたの師匠であった福田総理の福田ドクトリンのようなアジア外交の総合戦略を期待するのは無理なんでしょうか。その必要性も含めて、明快な御答弁をお願いいたします。(拍手) 我が国のアジア戦略を描く場合、中国の存在を無視することはできません。中国の台頭は、一時的なブームなどではなく、世紀の単位でとらえるべき歴史的現象です。しかも、その動向は世界規模で衝撃を与えるものです。
ちょっとどっちが早いか私も時期的には分かりませんが、やはり福田ドクトリンと称されるものというのは、その後ずっと、今でもしばしばASEANの方々と話すと、あの福田ドクトリンということでしばしば引用されるというのは、やはり私はそこにASEANの、アジアの皆さん方の心を打つものがやっぱりあるからなんだろうと、こう思っております。
日本がアジアとの間で本格的な仕組みをつくるというふうに言ったのは恐らく、人によって評価違うと思いますが、私は多分、福田ドクトリンと言われた一九七〇年代後半のこの設定だろうと思います。日本はアジアとやるんだというのをドクトリンとして取りまとめられました。その後、大平総理が、じゃ、もう少し主導権を発揮しようかというふうに動かれたところ、隣国、それぞれアジアの諸国は腰が引けた。
私は、今、肩書二ついただきましたが、長いこと新聞記者として経済協力を取材いたしまして、日本の経済協力五十年、去年、半世紀ということだったんでございますが、正直に言って、日本の経済協力が今日のような形として、ある程度外交のツールとして、又は国際協力の貢献する材料として形を整えてきたのはやはり七〇年代後半の福田ドクトリンと言われるようなODAの中期目標ができた辺りからのことかなと考えますと、二十五年かそのぐらいの
日本の対アジア外交というのがなかったかというと、それは恐らくないということはないと思いますけれども、恐らく七七年の福田ドクトリン、もちろんそれ以前からも賠償外交というのはありました。
やはり人の心と心のつき合いをより深めようじゃないかというのが福田ドクトリンと言われておりまして、東南アジアの諸国に行くと、福田先生、福田ドクトリン、ハート・ツー・ハートという言葉が今でもよく出てまいります。やはりそういうコンセプト、そういう考え方でやっていくということも必要なんだろうと思います。 いずれにしましても、日本の利害ばかり主張してはならない。